「もし自分が死んだら、大好きなあの山で眠りたい……」
登山を愛する人なら、一度はそんな浪漫を抱いたことがあるかもしれません。しかし、それを江戸時代に、本当に叶えてしまったお殿様がいました。
大分県竹田市、くじゅう連山の大船山(たいせんざん・標高1,786m)の中腹。標高約1,400mという、大名のお墓としては日本一高い場所に佇むのが、岡藩三代藩主・中川久清(なかがわ ひさきよ)の墓所、通称「入山公廟(にゅうざんこうびょう)」です。
なぜ彼は、これほど険しくも美しい天空の地に眠ることを望んだのか。そこには、一人の政治家であり、無類の山好きであった名君の、あまりにも純粋な山への愛がありました。今回は、大船山に息づく歴史のロマンと、ふもとの名湯を巡る、一歩深い竹田の旅路へご案内します。
- 岡藩の礎を築いた名君・中川久清。その知られざる素顔とは?
- 「山より奥の山を心に」――入山公が遺した山への恋文
- 険しい山中に築かれた、驚異の「天空の廟所」
- 旅のヒント:入山公廟へのアクセスと、殿様も癒やされた「七里田温泉」
- 旅の締めくくりは、ふもとの名湯へ
岡藩の礎を築いた名君・中川久清。その知られざる素顔とは?
大船山を愛し、後に「入山公」と呼ばれることになる中川久清ですが、江戸時代初期の政治家としては、岡藩の歴史の中で最も大きな足跡を残した名君の一人です。
久清は、ただ山を歩き回るのが好きなお殿様だったわけではありません。その生涯は、極めて高い知性と、領民の暮らしを豊かにしようとする強い情熱に満ちていました。
- 最高峰の知性を集めた「教育の父」
久清は幼い頃、岡山藩の名家老として知られる陽明学者・熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)のもとで学びました。その影響もあり学問を深く重んじた久清は、藩主になると京都から高名な儒学者・山崎闇斎(やまざき あんさい)を招聘。藩士だけでなく領民にも学問を推奨し、のちの岡藩に根付く高い教育文化の礎を築きました。 - 領民を飢えから救った「新田・水路開発」
当時、水不足に悩まされていた岡藩の領地を救うため、久清は大規模な新田開発や大分川の開削、そして現在も竹田の豊かな農業を支える「緒方下井路(おがたしもいろ)」の原型となる水路建設などを強力に推し進めました。 - キリシタン取り締まりと「お札(ふだ)踏み」の創始
江戸幕府によるキリスト教禁止令が強まる中、多くの潜伏キリシタンがいた岡藩の舵取りにも苦心しました。実は、全国の幕領や諸藩で行われた「絵踏(えふみ)」に先駆け、岡藩で最初に行われた「お札踏み」は、久清の時代に始められたものとされています。
厳格な政治家として藩の基盤を完璧に整えた久清。しかし、そんな彼が50歳で隠居し、息子の久恒に家督を譲った後、それまでの張り詰めた政治の世界から解き放たれるように心を寄せたのが、くじゅう連山の美しい「山々」でした。
「山より奥の山を心に」――入山公が遺した山への恋文
これほどまでに多大な功績を残し、岡藩の基盤を完璧に整えた久清。しかし、50歳で家督を譲り隠居してからの彼は、政治の世界から解き放たれたかのように、くじゅう高原の美しい山々へと熱烈に心を寄せていきます。
のちに自らを「入山(にゅうざん)」と号したことからも分かる通り、彼の一番の素顔は、「くじゅうを誰よりも愛した純粋な山岳人」でした。
久清が隠居後に遺した歌に、こんな二首があります。
もとむべき かくれがもなし おのづから 山よりおくの山を心に
しずかには住えましとは おもへども山より山のおくをたづねん
「静かに隠居生活を送ろうと思っても、どうしても心は山のはるか奥へ、もっと奥へと向かってしまう」――。まるで山への恋文のようなこの歌の通り、彼が終生、焦がれ続けた「山より奥の山」こそが、大船山でした。
実は、久清は足が不自由という大きなハンディキャップを抱えていました。身長150cmほどと小柄だった彼は、屈強な領民が背負う「人馬鞍(じんばくら)」という背負子(しょいこ)のような椅子型のみこしに揺られながら、標高1,786mの大船山山頂まで何度も登ったのです。現代のように整備された道がない時代、人の背を借りてまで険しい嶺を目指したその情熱には、ただただ圧倒されます。
※この「人馬鞍」の現物は、城下町にある「竹田市歴史文化館・由学館」で見ることができます。
延宝8年(1680年)、人生の終焉を悟った久清は、「自分が死んだら、大船山の鳥居ヶ窪に葬ってくれ」と遺言を残します。そして翌年、66歳でこの世を去ると、遺臣たちはその熱い願いを忠実に叶え、険しい山中にあの壮大な墓所を築いたのです。
険しい山中に築かれた、驚異の「天空の廟所」
実際に「入山公廟」を訪れると、江戸時代の人々の凄まじい執念と敬意に驚かされます。
鳥居をくぐり、見事な石積みの基壇の上に佇むのは、かまぼこ型の少し変わった形をした墓石です。これは久清が深く傾倒した儒教に基づいた「儒葬式(じゅそうしき)」のつくり。驚くべきことに、この重い石材の数々は、わざわざ京都からここまで運ばれてきたものです。当時はここに立派な御霊屋(おたまや)が建てられ、墓守のための番所や番人まで置かれていたといいます。
さらに驚くのは、藩を挙げた「火災(野焼き)対策」です。大切な殿様のお墓を山の野火から守るため、毎年170名もの人足が動員され、廟の周囲約1kmにわたって草を刈り、なんと最大150m幅の土地を鍬(くわ)で丸ごと削り取って徹底的な防火帯を作っていました。これほどの手間をかけて守られたからこそ、今も私たちは国の史跡としてその姿を拝むことができるのです。
廟所の近くにある岩に登れば、思わず息をのむ絶景が広がります。
眼下に広がるのは、久清が治めた岡藩の領地と久住高原。その向こうには、雄大な祖母傾連峰や、噴煙を上げる阿蘇山が連なります。振り返れば、大船山が優しく包み込むようにそびえ立っています。
「ここがいい!」と感動し、自分の魂をここに置きたいと願った入山公の気持ちが、時代を超えてダイレクトに伝わってくる場所です。
旅のヒント:入山公廟へのアクセスと、殿様も癒やされた「七里田温泉」
入山公廟へのアプローチは、歴史を肌で感じる最高のトレッキングルートです。
- 岳麓寺(がくろくじ)登山口から歩く:
七里田温泉に近い「岳麓寺登山口」から、舗装された牧野道を歩き、「柳が水」の分岐を経て約2時間。見晴らしの良い景色を楽しみながら、かつて久清が人馬鞍に揺られて登った道を追体験できます。(※ここから大船山頂までは、さらに急傾斜を約1時間半登ります)。 - 大船山観光登山バスを利用する:
「山登りは体力的・時間的に難しいけれど、このロマンに触れたい!」という方には、期間限定・完全予約制で運行される「大船山観光登山バス」がおすすめ。これを利用すれば、バスの終点からわずか徒歩約40分で入山公廟へたどり着くことができます。旅行のスケジュールに合わせて、ぜひ運行状況をチェックしてみてください。
旅の締めくくりは、ふもとの名湯へ
大船山を降りたら、ぜひ立ち寄ってほしいのがふもとにある「七里田温泉(しちりだおんせん)」です。
実は中川久清、大船山登山の拠点として、この七里田温泉に「御茶屋(藩主の休憩・宿泊施設)」を整備し、自らも湯治を楽しんでいました。
日本屈指の濃厚な炭酸泉(ラムネの湯)として知られる七里田の湯は、登山の疲れをシュワシュワと心地よく溶かしてくれます。殿様と同じ景色を眺め、同じ湯に浸かる――そんな非日常を味わってみてはいかがでしょうか。
大船山の歴史ロマンをゆったり堪能した後は、大自然に包まれる久住高原や、日本一の炭酸泉と称される長湯温泉での宿泊がおすすめです。お好みのエリアから、お気に入りの宿を見つけてみてください。